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嗚呼壮烈!岩屋城(3)

  嗚呼壮烈!岩屋城(2) のつづき

   推定「金光寺」跡裏手より、いよいよ岩屋城本丸を目指して山道を登って行きます。

  岩屋城1


 その道すがら、「萩尾大学」の墓とされる、板碑がありました。
 萩尾大学は高橋紹運の家臣で、岩屋城の戦いで討死したということです。(萩尾大学については詳細がわかりませんでした)現在でも墓に香華が手向けられています。

 萩尾大学の墓


 
 そして、さらに山道を登っていきますと、高橋紹運の墓(胴塚)に至りました。
 この辺りが岩屋城の二の丸付近にあたります。

 歴史上の人物の墓参ですが、とくに討死した武将の場合、当然のことながら、「首塚」と「銅塚」が別々にある場合が多いです。(もちろん、諸事情でどちらか片方だけしか存在しない場合もあります)
 その場合、可能であればどちらも参ることがとても重要になります。

 今回のツアー参加者のほとんどは墓に手を合わせていましたが、残念なことに墓石に腰かけたり、ペタペタ叩いたりしていた人がいました。(けっこうな年配者でした)そういう失礼なことは止めましょう(泣)

 今回は墓がメインではないので、皆さんさっさと先を急いで行かれましたので、しばし墓前で感慨にふけるというわけには参りませんでした。
 高橋紹運銅塚



 墓の側の紅葉が色づきはじめたばかりでした。
 高橋紹運銅塚2

 結局、今回も墓の紹介でした(汗)

 本丸を目指して、つづきます。



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嗚呼壮烈!岩屋城(1)

 昨年11月、福岡県小郡市にある九州歴史資料館にて開催された特別展「戦国武将の祈りと誇り~九州の覇権のゆくえ」という展示を見てきました。そのことは昨年、当ブログに書きました。

 その折、関連イベントとして文化財めぐり「戦国の城と古戦場を歩く~岩屋城と高橋紹運~」というイベントに参加してきました。時間が経ってしまいましたが、その時の記録を記しておこうと思います。


 岩屋城(福岡県太宰府市)は文明10年(1480年)前後に、守護大名大内氏によって築城されたのがはじまりだといいます。
 その後、永禄2年(1559年)頃、豊後大友氏の家臣、高橋鑑種により宝満山城の支城として築かれました。
 しかし、高橋鑑種は主君、大友宗麟に対し謀反をおこして離反、敗れたため、大友氏の宿老であった吉弘鑑理(あきただ)の二男、鎮種(しげただ 後に出家して紹運が高橋家の名跡を継ぎました。鎮種は岩屋、宝満山城の城督となり、落ち目の大友氏を支えました。

   【高橋紹運肖像】
  高橋紹運

 
 ところで、高橋紹運には二人息子さんがいて、長男は統虎といい、後の立花宗茂です。

過去記事  立花宗茂
        立花宗茂の墓

 やはり大友氏の家臣に、戸次鑑連(道雪)という人がいて、あいにく鑑連には一人娘のほか、跡取りとなる息子がいませんでした。鑑連は高橋紹運の嫡男である統虎の器量を見込んで、紹運に対して、統虎をぜひとも娘婿に迎えたいと頼みこみます。
 この申し出に紹運は当惑し(そりゃそうですよね。ふつう、後継の長男は他家へ養子へ出すようなことはしません)、いったんは断ったものの、鑑連のたっての頼みとあってこれを受け入れ、統虎を戸次家の婿養子に出す決意をしました。

 統虎が戸次家へ養子に行く日、紹運はわが子に秘蔵の名剣「長光」を手渡しながらこう言いわたしました。
 「万が一、わしと敵味方となった時、先頭となってわしを討て。さもなくば、この剣で自害せよ」

 この統虎(立花宗茂)の戸次家への婿入りは、戸次家、高橋家の同盟という意味合いがあったとの指摘があります。

 なお、「長光」の剣は統虎(立花宗茂)が実父の形見として身近に置き、現在柳川藩立花家ご子孫のところに伝来しております。

 【剣 銘「長光」】(重要文化財 福岡県柳川市「立花家史料館」所蔵)
 剣 銘 「長光」

 
 天正14年(1586年)、九州制覇を目論む薩摩の島津氏の大軍が岩屋城に攻め寄せました。島津の軍勢はおよそ5万。
 対する高橋紹運以下の軍勢は763名。紹運は島津方の降伏勧告にも屈せず、劣勢でありながらよく戦い、籠城十余日、ついに力尽きた紹運は櫓にのぼり、念仏を唱えながら腹掻き切って果てました。
 
 時に紹運、39歳。城兵ことごとく壮烈な討死を遂げました。


   *********************************



 数年前に、私は100名城巡りで広大な古代の城「大野城」にやってきました。その折、タクシーで下っていると、道すがら「岩屋城」の案内板があり、大いにそそられましたが、あいにく帰りの飛行機の時間に間に合いそうになく、泣く泣く通りすぎたことがありました。

 今回、岩屋城址を歩くというイベントを知ったので、いい機会だと思って参加した次第です。私にとっては久しぶりの山城攻めとなりました。


 2013日11月4日(祝)
 
 西鉄二日市駅前で集合です。参加者は38名いたそうです。ほとんどが地元の方か隣県の方で、私のように遠方から北人はいなかったと思われます。前日の雨もあがり、薄曇りながら日差しも見えました。
 主催者のあいさつの後、スタートします。
 西鉄二日市駅


 二日市駅から歩いて15分くらいのところに、高橋紹運首塚伝承地(筑紫野市二日市北2)がありました。
 しょっぱなから「墓」です(笑)。引率の学芸員さんの説明を受けます。

 この首塚がある地は敵方、島津氏の本陣がある付近であり、紹運の首は実検が行われた後、この地に埋葬されたといわれています。
 下の写真のように石が積まれていますが、おそらく後世に築かれたものと思われます。
 高橋紹運首塚


 首塚の裏手にいた民家の飼い犬がキャンキャン吠えまくり、煩くて閉口しました。


                             つづく

 
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謹賀新年 2014

 謹 賀 新 年


 今年もよろしくお願いします。
 黒田家墓所1

 上の写真は、福岡県福岡市にある「崇福寺」にて、昨年11月に撮影したものです。
 「崇福寺」は今年のNHK大河ドラマの主人公、黒田官兵衛ら福岡藩主、黒田家の墓所があるところです。(今回は再訪です)

過去記事 黒田如水の墓(黒田家墓所)

       博多崇福寺(黒田家墓所)


 同墓所のとある大きな五輪塔の墓に、お猫様が居座ってまして。
 ご覧のとおりの写真となりました。皆様にも「福」がやって来ますように。

 さて、このお猫様、この墓からまったくどこうとしません。
  黒田家墓所2



 墓所にはもう一匹、黒猫がおりまして。。。カメラを向けると、なぜか目をつぶってしまい、カメラ目線になってくれません(汗)
  黒田家墓所3




 NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」は1月5日からスタートです。

 参考サイト NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」
 
 なお、崇福寺「黒田家墓所」は黒田家および寺のご好意により、現在一般公開されております。
 黒田家墓所4


 以前はなかった説明板が新たに設置されていました。
 崇福寺7

 



 
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【清正が愛した女性たち3】清浄院(かな姫・加藤清正継室)供養塔・・・清正、家康の婿になる

 つづき

 熊本城下から南へ約7kmほどのところに、熊本藩の船着き場や御蔵があった川尻という町があります。
 そこに、加藤清正の継室・清浄院の菩提寺があると聞いて行ってきました。

  常妙山法宣寺 開山は清正と親交が深かった肥後本妙寺の日真上人です。
 法宣寺

 関連記事 加藤清正の墓(本妙寺「浄池廟」)


 清正にははじめ、正室・山崎氏という糟糠の妻がいたのですが、この方は若くして亡くなってしまいます。
 慶長3年(1598年)に清正の育ての父ともいえる豊臣秀吉が死去し、この後、清正は急速に徳川家康との関係を深めていきます。
 関ケ原合戦の前年の慶長4年(1599年)、清正は徳川家康の養女で、水野忠重の娘を継室に迎えます。この結婚は政略結婚であり、すなわち、清正は家康の婿になったわけです。
 新婦の名は水野家の資料によれば「かな」と呼ばれていた、18歳の娘でした。この時、清正は38歳で、なんと20歳差!という「年の差婚」でした。
 なお、新婦の実父・水野忠重というのは、家康の母・伝通院(於大ノ方)の弟であり、従って「かな」と家康とはいとこ同士になります。また、武将として名を馳せた水野勝成は「かな」の兄にあたります。

 結婚後、「かな」は大坂の屋敷に住んでいましたが、関ケ原合戦前夜、石田三成が各大名の奥方を人質として大坂城へ入城させようとしたので、家臣の機転により屋敷より脱出し、夫の待つ熊本城へ迎えられます。
 慶長6年(1601年)、二人の間には「八十(やそ)姫」(のちの瑤林院)が誕生します。慶長14年には清正と家康との取り決めで、八十姫と家康の息子・頼宣(後の紀州主)との間に婚約が交わされます。清正は愛娘の婚約をことのほか喜んだといいます。


 関連記事 【清正が愛した女性たち4】父・清正の遺品と信仰を受け継いだ瑤林院(八十姫)・・・再掲Ver.

 
 しかし喜びもつかの間、慶長16年(1611年)に夫・清正が急死。わずか12年という短い結婚生活でした。
 「かな」は髪を下し、夫に先立たれた悲しみに耐え、跡を継いだ清正の側室の子である忠広の嫡母として忠広を後見します。
 元和3年(1617年)には娘・八十姫と婚約者である徳川頼宜との婚儀が無事執り行われました。
 
 加藤家改易後はいったん実家の水野家に戻り、晩年は京都の本圀寺に隠棲し、明暦2年(1656年)に75歳で亡くなりました。


 どうして熊本の方に京都で亡くなった清浄院の菩提寺があるのかよくわかりませんが、川尻法宣寺の境内には彼女の供養塔が建てられていました。
 法名 清浄院殿妙忠日寿大姉
 清浄院供養塔

 お寺さんにお願いして本堂を拝観させていただいたところ、清正と清浄院夫妻の木造が安置されており、清浄院の木造は尼僧姿で、丸顔の愛らしい表情をしていました。

 清浄院の実家・水野家の宗派は曹洞宗なんですが、彼女は嫁いだ後、死ぬまで日蓮宗の信仰を貫いているので、おそらくご主人の感化を受けたものと思われます。
 政略結婚で、しかも「年の差婚」ではありましたが、二人の仲は良好だったようです。


   
より大きな地図で 法宣寺 を表示



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【清正が愛した女性たち2】加藤清正母「伊都」の墓・・・母子家庭で育った清正

 つづき

 加藤清正側室「本覚院」の菩提寺である「本覚寺」に隣接して、その北側に壽福山妙永寺(日蓮宗)があります。
 こちらの寺には清正の母「伊都」のお墓があります。
 妙永寺

 清正は永禄五年(1562年)六月二十四日、尾張国中村に父・加藤清忠、母・伊都のもとに生まれました。
 父の清忠はもともと美濃の斉藤氏の家臣でしたが、故あって武士の身分を捨て、鍛冶屋清兵衛のもとへ弟子入りします。ここで清兵衛の娘である伊都と出会い、やがて所帯を持ちます。
 ところが、清忠は清正が3歳の時に病のため他界してしまい、残された伊都と清正は「母子家庭」になってしまいます。今でこそ、ひとり親家庭でも何とか暮らしていける時代になりましたが、当時は生活していくのにかなり苦労したのではないか、と思われます。
 伊都は娘時代から日蓮宗の熱心な信者であり、清正が5歳の時、近くの日蓮宗・妙延寺に清正を預け、経書、仏法、書道を習わせたといいます。この事が清正の人間形成に深い影響を与えました。

 伊都は豊臣秀吉の母「大政所(なか)」と従姉妹同士だったといわれ、その伝手を頼って、清正が9歳の時に秀吉のもとへわが子を預けます。子供がいなかった秀吉・ねね夫妻のもとで清正が養われることになったのは周知のとおりです。


 本堂の手前に、清正の母・伊都の廟所がありました。
 このお堂の中に墓があるのかと思ったら、違っていました。お堂の中には伊都の木造が安置されているそうです。(外からは見えなかった)
 清正母廟所


 お墓はお堂のすぐ裏手にありました。うっかり見過ごすところでした。
 慶長5年(1600年)5月、関ヶ原合戦を目前に伊都は亡くなり、亡骸は高麗門外の現在地に葬られました。
 伊都の墓は朝鮮から運んだといわれる石で造られた五輪塔です。

 法名「聖林院殿天室日光大姉」

 なお伊都の三回忌の時に、墓所に寺が建立され、清正は最愛の母のためにねんごろに供養を行いました。
   清正母墓

 南無妙法蓮華経・・・母が伝えたお題目の七文字は、清正が出陣の折には旗印にも用いられ、武将としての生涯を支えることになったのです。


 なお、寺宝として縦二間・横三間の「涅槃図」が伝わっており、毎年2月15日の一日のみご開帳されているそうです。
 
 
 参考サイト 壽福山妙永寺

     熊本市中央区横手1丁目14−19
   
より大きな地図で 妙永寺 を表示
 



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【清正が愛した女性たち1】本覚院(加藤清正側室)の墓

 熊本城の南西に、「横手」という名の一画があり、寺院の密集する寺町となっています。もしかしたら、ここに寺を置くことで、加藤清正はある種の防御施設を想定していたかもしれません。

 その横手の町に、清正の側室「本覚院」の菩提寺である「本覚寺」(日蓮宗)があります。
 地元では「六角堂観音」として知られており、安産祈願に御利益があるとのこと。
  本覚寺3

 清正には正室のほか、数名の側室がいたことがわかっています。
 そのうちの一人、本覚院は菊池武宗の娘と伝わりますがはっきりしません。
 慶長4年(1599年)に清正の子・熊之助(忠正)を生みますが、悲しいことにわが子・忠正は8年後の慶長12年(1607年)に幼くして病死してしまいます。
 本覚院は熊本藩の御蔵があった川尻町の御茶屋に長く暮らしたので、「川尻殿」と称されました。
 寛永3年(1626年)4月9日死去。法名 本覺院殿月心日圓大姉。
 平成17年に本覚院第380遠忌を記念して寺内から墓を移設し、新たに廟所を建てたとのことです。

  本覚寺2

 廟所の中に墓が二基あり、右側の大きい方が本覚院のものです。
 左側の一回り小さい墓は、寺伝によると清正の三男・忠広の供養塔だということです。通常、忠広の母は正応院(玉目氏)とされますが、本覚寺の寺伝によると、実はその生母は正応院ではなく、本覚院だといいます。
 ただし、なぜか供養塔自体には女性の法名が刻まれているので、この辺りは判然としません。

  関連記事⇒加藤忠広(加藤清正息子)および母・正応院の墓 (山形県鶴岡にあります)

  本覚寺1

 ※なお、墓移設に際して発掘調査したところ、遺骨とともに副葬品が数点発見されました。

 参考サイト 本覚院殿(加藤清正側室)墓出土品 (熊本市HPより)


 清正は長男、次男に早世されており、このことは大大名となってからの加藤家の存続に際してもさぞや懸念されることではなかったか、と思われます。
 本覚院をはじめ、清正が愛した女性たちは出自や俗名など詳細が伝わらないためその素顔を知るのは難しく、唯一お墓が彼女たちの生きた証を残しています。


 参考サイト 六角堂観音 本覚寺

   熊本市中央区横手1-14-20
  
より大きな地図で 本覚寺 を表示


 すみませんが、二日くらいお休みさせていただきます。


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加藤清正の墓(本妙寺「浄池廟」)

 大河ドラマで「加藤清正」を! のつづき

 やっとここまで来ました。

 熊本城の北西、中尾山の中腹にある発星山本妙寺(日蓮宗)
 ここに、加藤清正の墓があります。
 天正13年(1585年)、清正が父・清忠の追善のため、大坂に寺を建てたのが始まりです。
 天正16年(1588年)に肥後に入封した清正は、同19年(1591年)に本妙寺を大坂から熊本城内へ移します。
 慶長19年(1614年)に城内にあった寺が焼失したのを機に、清正の墓がある中尾山へ移転しました。
 
 写真の数が多いのでちょっと長くなりますが、ご了承ください。
 写真は一部撮り直した分を除き、2008年秋撮影です。


 中尾山の麓に立つ仁王門。大正時代に寄進された、コンクリート製の山門です。
 本妙寺16(仁王門)


 仁王門をくぐると、長い参道があり、両脇には本妙寺の子院の寺が立ち並んでいます。
 本妙寺15


 「胸突雁木」と呼ばれる、176段もある急こう配の石段を登っていきます。ここの石畳は熊本城築城の際に余ったものを利用したのだとか。檀信徒が寄進した石灯籠も多くみられます。
 唱題しながら、ゆっくり登っていきます。
 本妙寺14(胸突雁木)

 
 石段のところに、猫がででんとねそべってました。この辺り、野良猫の数も少なくなさそうです。
   本妙寺12


 石段の中途に「六喜廟」があり、ここには清正の息子・忠広ら清正の家族6人が祀られています。
 今年の春、山形県鶴岡にある忠広とその母、正応院の墓参をさせていただきました。
 
 関連記事⇒加藤忠広(加藤清正息子)および母・正応院の墓

 本妙寺1(六喜廟)



 石段を上りきったところに、「浄池廟」と書かれた扁額のある中門がありますので、くぐります。
 本妙寺2

 

 正面に「拝殿」があります。
 本妙寺3(拝殿)



 拝殿のすぐ裏に清正の墓、「浄池廟」があります。廟の名は清正の法号「淨池院殿永運日乗大居士」に由来します。
 清正は慶長16年(1611年)3月に二条城における徳川家康と豊臣秀頼との会見に同席します。しかし、肥後への帰国途中の船内で発病し、6月24日に熊本城内で亡くなりました。享年50歳。
 家康から毒をもられたという説もありますが、死に際体が黒ずんでいたという話から内臓疾患(肝臓?)が死因だったようです。
 遺骸は熊本城と同じ高さにあたる城の北西・中尾山の中腹に埋葬され、廟が建てられました。
 明治維新後の廃仏毀釈の際、いったん廟は取り壊され、代わりに墓石が建てられましたが、明治27年に廟が再建されました。 
 
本妙寺4(浄池廟)


 「浄池廟」の説明板
 本妙寺5(浄池廟案内板)


 ★調べましたところ、過去にこのような歴史上の人物も清正の墓参をしています。

   頼山陽(陽明学者 漢詩人) 文政元年(1818年)、彼は感動して2度も墓参に来ており、長い詩を詠んでいます。
   頼山陽

   河井継之助(越後長岡藩家老 司馬遼太郎『峠』の主人公)安政6年(1859年)参詣
   河合継之助

   森鴎外(軍医 文学者) 明治32年(1899年)参詣
   森鴎外


 ※調べれば、もっと他にもいたかもしれません。。。

 
  加藤清正ゆかりの品々がおさめられた宝物館。時間があったら覗いてみましょう。
  今回、熊本県立美術館開催「加藤清正展」でも本妙寺所蔵の史料が多数出展されていました。

   本妙寺17(宝物館)



 大木土佐守兼能の墓。
 大木兼能はもともと佐々成政の家臣でしたが、成政が豊臣秀吉によって賜死した後、清正の家臣となります。
 清正の側近として活躍し、関ケ原合戦前夜、石田三成が諸大名の夫人を大坂城内へ人質にしようとした際、大坂の屋敷から清正夫人を脱出させるのに貢献しました。
 清正を追慕し、その死の翌日に殉死。法号:尭心院殿道了日解居士
 なお、大木兼能は加藤神社にも陪神として祀られています。

 この大木兼能なんですが、実は「水戸黄門」に出てくる「助さん」のモデルである佐々宗淳の母方祖父に当たります。おかげさまで、お祖父さんとお孫さん両方の墓参をさせていただきました。

 過去記事⇒佐々宗淳の墓

   本妙寺6(大木兼能墓)


 金宦(きんかん)の墓
 「金宦」とは会計職の意。本名は「良甫鑑」といいます。朝鮮出兵の折にまだ少年だった彼を清正が連れて帰りましたが、なかなか能力があったようで、清正のもとで会計の職に従事していたといいます。
 清正死後、七回忌の際に殉死しました。
 なお、「金宦」も加藤神社に陪神として祀られています。
   本妙寺13(金宦墓)


 この後、廟の裏手に回りますと、300段!の石段が待ち構えていました。
 本妙寺7


 ふーふー言いながら登っていくと、清正公の銅像が姿を現した!
 本妙寺8


 彫刻家・北村西望(長崎「平和記念像」で有名)作の加藤清正公銅像です。
 戦前に建てられたものは戦時中金属供出の憂き目に遭い、現在のものは唱和35年作の再建されたものです。
 本妙寺9(加藤清正銅像)


 銅像が建つ場所からは、熊本市街が一望できます。肥後の国づくりに心血注いだ清正が、今も熊本の町を静かに見守っています。
 本妙寺10

 
    ※拡大図(熊本城が遠望できます)
    本妙寺11(熊本城遠望)


 時間のある方はぜひ参詣してほしい場所です。
 この後、清正ファミリーの墓参りを。
                        つづく


 参考サイト 本妙寺

    熊本市花園4-13-1
   
より大きな地図で 加藤清正墓(浄池廟) を表示

 
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黒田忠之の墓(黒田騒動)

 筑前藩黒田家の続きです。豊臣秀吉の「軍師」として功なり名を遂げた黒田如水、豊臣家からいち早く離反の上、徳川家に与し、関ヶ原の戦いで功を挙げ、筑前52万石を手にした息子の長政の墓を見てきました。
 黒田家の菩提所であった博多の崇福寺さんには如水、長政をはじめ黒田家歴代やその家族のお墓があったんですが、実は黒田家の墓所が他の寺にもあったことを知り、そちらにも行ってきました。

 博多・東長寺 真言宗のお寺です。
東長寺

 こちらのお寺に、黒田長政の息子で筑前藩第二代・忠之、三代・光之、八代・治高の三人の藩主の墓がありました。
黒田忠之の墓

 黒田忠之(1602~1654年)ですが、慶長七年(1602年)に長政の長男として生まれました。幼い頃から体が弱かったそうで、能力的にも凡庸であったと伝えられています。そのため、長政も奥方もこの子を跡継ぎにすることに不安を感じ、忠之を廃嫡して、弟の長興(後に秋月藩黒田家をおこす)を跡継ぎにしようと試みましたが、家老であった栗山大膳利章に反対され、結局忠之が二代藩主に就任します。

 父親の長政が亡くなると、頭上の重しが取れたように、忠之は自分にゴマをする側近を登用するようになります。これに対して、事あるごとに忠之をかばってきた家老の栗山大膳は何度も忠之に対して忠言しますが、忠之は聞く耳を持ちません。
 こうして、藩主の忠之と家老の栗山大膳の対立は深刻化して、とうとう思いあまった大膳は、幕府に対して「主君・忠之に謀反の疑いあり」として訴え出るのです。
 これが世に言う「黒田騒動」と呼ばれるお家騒動です。
 会社などでもそうですが、創業者、二代目ぐらいまでは苦労した時代がありますから堅実に生きていくものですが、三代目あたりになると、苦労知らずで甘やかされて育っていたりで土台が揺らいだりすることはよく聞く話です。

 ところで、各地のいろんな大名の墓を見て回っていますと、代々の藩主が同じ寺に葬られている場合もありますし、いくつかの寺に分散して葬られている場合等いろいろあります。
 しかし、黒田家の場合、今回紹介した黒田忠之は父の長政から長年疎んじられていたため、同じ寺に葬られたくて、わざわざ別の寺院を選んだのかなあと思われました。単に、黒田家の信仰する宗派と自分が信仰する宗派の違いによってではない深い理由があってのことかもしれないと推察されます。

 さて、突如として改易の危機に見舞われた筑前藩黒田家52万石の命運はいかに!?次回は騒動のもう一方の当事者である家老・栗山大膳の墓を紹介します。



より大きな地図で 東長寺 を表示


関連記事 
  黒田如水の墓
  黒田長政の墓

 
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tag : 有名人の墓(か行)

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日本100名城完全制覇と有名人の墓めぐり(掃苔)
日本100名城スタンプラリー終了・・・2011年7月、根室半島チャシ跡群にて、無事100名城完全制覇しました。
2010年5月、47都道府県踏破済み。(離島を除く)
歴史の現場を、実際歩いて確かめることをモットーに、全国を行脚中。いつかあなたの住む町へ行くかもしれません。
東京生まれ東京育ち。
大卒後、音楽関係の仕事、専業主婦、現在は零細企業で総務関係の仕事をしています。

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