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龍馬!慎太郎!半平太!三志士が集結!!(JR高知駅前)

 過去記事「井口事件の現場」のつづき

 JR高知駅前では、現在「志国高知 龍馬ふるさと博」が開催されております。
 そして、昨年7月に除幕された武市半平太(左)、坂本龍馬(中)、中岡慎太郎(右)の3人の像が仲良く並んで立っておりました。
 龍馬ふるさと博1

 この3志士の像も、高知駅前に設置されるまでスッタモンダがあったらしいですね。なんでも、当初は桂浜の坂本龍馬銅像のところに中岡と武市の像を並んで建てるとかいう話で、それが地元の人たちの反発を買い、結局高知駅前に設置されることで落ち着いたんだとか。
 ちなみに、三名の像は発砲スチロールやウレタン製だということです。私的な感想をいえば、中岡慎太郎のはあまり似てないような。
 それにしても、三人とも非業の死を遂げたわけですが、このように像が建てられたりして顕彰されていることをあの世でどう思ってるんでしょうか。



 その後、駅前パビリオン会場に新しく設置されたNHK大河ドラマ「龍馬伝」で使用された龍馬の生家セットを見学しました。ここに入るのに大人500円とられます。
 撮影終了してセットも用済みでしょうから、こうして「再活用」したんでしょうね。
 龍馬ふるさと博2

 番組で使用された衣装や小道具なども展示してありましたが、著作権フリーらしく、写真撮影OKでした。
 ちなみに下の写真は二階にあるという設定の龍馬の部屋。
 龍馬ふるさと博3

 この日は土曜日だったのですが、閑古鳥とは言えないまでもお客さんは少なかったですねえ。それにしても、「龍馬伝」放映中に高知へ来た時は観光客がわんさかいましたから、大河ドラマの影響恐るべしです。
 逆にいえば、ほとぼりが冷めた現在はゆっくり観光したい人たちにとっては穴場というか、ちょうどいいかもしれませんね。
 個人的にはあまり見るべきものもなく、10分くらいで出てきてしまいました。


 夜、高知駅前にもう一度来てみると、三志士の像がライトアップされてました。
 龍馬ふるさと博4

 こうしてみると、少々不気味な感じがwwww


 参考サイト 志国高知 龍馬ふるさと博


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テーマ : 国内旅行
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【龍馬伝最終回】中村達也さん(元BLANKEY JET CITY) 附トータス松本さん

 大河ドラマ「龍馬伝」とうとう終わってしまいました。残念ながら、最後まで疑問符???が点灯する内容でした。
 先日、当ブログで「坂本龍馬 人生最後の旅路(一)~(三)」を書きました。そしたら、今日の最終回、龍馬が越前で、松平春嶽(夏八木勲さん)と会見している場面がありました。
 それはいいのですが…。なぜかその場に同席していたのが、三岡八郎(中川家礼二さん)。これには驚きました。「坂本龍馬 人生最後の旅路(三)三岡八郎 龍馬の“志”を引き継ぐ」のところを参照していただきたいのですが、この時、三岡は藩内の抗争がらみで当の春嶽から不興を買って失脚し、謹慎処分でいたのですから、両者が同席するなどまったくありえない。春嶽の側にいる可能性ゼロなのです。このシーンは史実からして見ていておかしいです。
 それから、三岡と語らう場面がわずかでもあろうかと期待していたのですが、それもなし。(´・ω・`)少々ガッカリでした。
 最後なので少々厳しい意見になるのをお許しいただきたいのですが、「ドラマなのだから、史実は二の次でいいじゃん」という方も中にはいるでしょうが、やはり今回の「龍馬伝」あまりにも史実からかけ離れているというか、上記のような完全な誤りの部分が目立ちすぎました。(私のようなド素人でもすぐ誤りに気づいた程だったので)
 今年、龍馬や幕末関係の講演会などに何度か参加したのですが、幕末史の研究者の方たち(学者や学芸員さんなど)も、「龍馬伝」に関しては、ほぼ全員の人が「途中から見るのを止めました」と諦めの表情で言っていました。龍馬の出身地である高知県の有名な研究者の人ですら、「見てません」とキッパリ言っていたので。理由としては、やはり史実とドラマとのあまりにも大きな乖離や明らかに間違っている点が気になってしょうがないということでした。

 小耳にはさんだ話ですが、そもそもこの「龍馬伝」、企画の段階では当初龍馬が主人公ではなく、「岩崎弥太郎」が主人公のドラマが企画されていたんだそうです。
 ところが、それでは単なる「偉人伝」になってしまうため、途中で企画変更したのだとか。(聞いた話なので、どこまで本当かはわかりません)だから、ちょっと話の筋的に無理な部分があったのではないか、と想像しています。
 それから、出来れば脚本家の方は時代劇の作法を知っている、それなりに時代劇を書いた経験のある人に頼んだ方がいいかもしれないですね。
 来年、大河ドラマは50作目という節目の年なのですが、出来れば過剰なフィクションをふんだんに盛り込むことよりも、昔の作品のように史実を尊重する姿勢をもう一度取り戻していただきたいものです。

 さて、ドラマの方に話を戻しますが、近江屋に隠れていた龍馬を襲った佐々木只三郎率いる見廻組ですが、首領の佐々木役に眼光鋭いコワモテの役者さんが演じられていました。
 いったい、何方かと思ったら…(続きをクリックしてください)
 

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テーマ : 龍馬伝
ジャンル : テレビ・ラジオ

坂本龍馬 人生最後の旅路(三) 三岡八郎、龍馬の“志”を引き継ぐ

 つづき

 下の写真は、中央公園内にある三岡八郎、後の由利公正の若き日の姿です。
三岡八郎1
DSCF4899.jpg

 慶応3年(1867年)11月1日、大政奉還を見届けた坂本龍馬は土佐藩士・岡本健三郎を伴い、再び福井を訪れました。表向きの用件は、後藤象二郎から預かった山内容堂の手紙を松平春嶽に届け、春嶽に上京要請することにありました。龍馬にはもう一つ、大事な用向きがありました。それは、以前知り合った三岡八郎に面会し、新政府建設の件で相談を持ちかけることでした。

 しかし、この時三岡八郎は藩内の抗争に巻き込まれ失脚、謹慎中の身でした。そこで藩に許可を取り、龍馬が投宿していた「たばこや(莨屋)」という旅館で面会することになりました。ただし、三岡には藩から二人の目付(監視人)が同行するというのが条件でした。
 三岡の回想によれば、朝8時頃、「たばこや」を訪れたということです。「たばこや」は明治になってから火事で焼失しているため、現在は跡地に石碑が残るのみです。

たばこや跡

「烟草屋(たばこや)へ入って龍馬と呼んだら、ヤー話すことが山程あるという。その顔を見るとすぐに天下のこと(大政奉還)は成就と思われた。自分は罪人であるから立会いの役人を連れて来たと断れば、おれも同様の付人がおる。健三来いよと呼ぶ。
 これは土佐の目付の下役で岡本健三郎という人だ、共に聞けよとの事で、土佐越前の役人を左右に置き、坂本と私と両人は炬燵に入って、徳川政権返上の次第、朝廷の事情等、具さに聞いた」

 当時11月の福井の寒さは格別なものがあったようで、二人は炬燵で寒さをしのぎながら歓談します。大政奉還に至る現状を三岡に説明した龍馬でしたが、新政府建設にあたり、財力も無いし、兵力もないと嘆きます。そこで三岡は、天下の安寧のためにはまず国の財政を整備することだと答えます。その方策として、かつて福井藩で試行した金札発行による富国策を提案しました。
 龍馬は三岡の意見に感服し、三岡に対して新政府では財政担当をお願いしたいと言いました。こうして、夜12時過ぎまで龍馬と三岡はとことん語りあかしたといいます。
 
 別れ際、龍馬は「明日出立する」と言って、三岡に自分の肖像写真をくれました。互いに何時の日かの再会を約束して、別れたに違いありません。

 それから数日後、三岡は家老の屋敷へ赴き、会見の顛末を報告しました。龍馬からもらった写真を懐に忍ばせて…。その帰路、川を舟で渡っているときに、あろうことか三岡は懐に入れていた龍馬の写真を川へ落としてしまうのです。ただちに探してみましたが、見つかりません。
 大事な失くし物をしてしまった三岡は虫の知らせというか悪い予感がしたものか、「大いに気掛かりで」京都からの便りを待っていたといいますが、やがて龍馬が暗殺されたことを知りました。そして、ひそかに三人の仲間と共に龍馬の供養を行ったと述懐しています。

 翌慶応4年正月、三岡は「五箇条の御誓文」を起草し、岩倉具視へ提出します。新国家の方針を掲げたこの誓文は、龍馬の船中八策が活かされたものでした。三岡が書いた草稿は、土佐藩の福岡孝悌、長州藩の木戸孝允の修正を得て、正式に布告されることになりました。
 (この前見学した、皇居・三の丸尚蔵館での展示会に「五箇条の御誓文」の控が出展されていました。原本は天皇陛下の御物なので、さすがに出ていませんでしたが…)

 明治維新後、由利公正と名を改めた三岡は、龍馬が願ったように新政府に参加し、数々の要職を歴任しました。
 明治10年(1887年)には子爵にも列せられました。
 そして、明治42年(1909年)、81歳で他界、天寿を全うしました。

 33歳の若さで逝った龍馬と、81歳まで長生きした三岡。龍馬と三岡が会ったのはたった二度でしたが、三岡は志半ばで凶刃に斃れた龍馬の志を継ぎました。
 三岡…後の由利公正ですが、晩年になって龍馬との思い出を回想という形で残しています。これは、明治5年に銀座築地の大火で、京橋木挽町にあった由利の邸宅が類焼し、維新前夜の記録がすべて焼失してしまったからです。
 もしこの時由利の邸宅が火事に遭わなければ、もしかしたら龍馬からの手紙などが伝えられたかもわかりません。
 
 松平春嶽や由利公正の他に福井藩の人物で龍馬と交流したのは村田氏寿という人がいます。それから、海援隊には越前出身者が6名ほどいたといわれます。
 最後に、龍馬が慶応3年の11月5日に福井から帰ってから風邪をひいてしまい、逗留先の近江屋で主人が龍馬の隠れ家として用意した土蔵では寒くてかなわないと言って、母屋へ出てきていたのが龍馬にとっては不運なことでした。
 歴史に「If」はありえませんが、この時もしも福井へ行っていなかったら…と考えるのは私だけではないかもしれませんね。
 

より大きな地図で 莨屋旅館跡 を表示 


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坂本龍馬 人生最後の旅路(二) 龍馬と横井小楠 三岡八郎

     横井小楠・三岡八郎

 松平春嶽は安政5年(1858年)、熊本藩士・横井小楠(写真左 1809~1869)を政治顧問として迎えました。かねてから小楠はその進歩的な思想が地元の熊本では受け入れられず、不遇の身を囲っていました。
 小楠は藩校明道館で講義をしながら、開国通商と殖産興業による富国強兵論を提唱し、福井藩の藩政改革を推進しました。その小楠から指導を受け、福井の特産品である絹や生糸を長崎から海外へ輸出してその富で藩の財政を立て直そうとし、結果として藩に50万両を貯えさせたという福井藩士・三岡八郎…後の由利公正(1829~1909年)です。上の写真は、小楠が熊本に一時帰国する際に、長崎での物資販路を開拓するため三岡と共に旅立った時の姿です。

 さて、坂本龍馬ですが横井小楠とは元治元年(1864 年)2月に熊本で会っています。その折、小楠から「国是七条」を説かれた龍馬は、小楠の考えに大いに心服したといいます。小楠の「国是七条」は、後に龍馬の「船中八策」の基となりました。
 このように、龍馬の思想というのはぶっちゃけ「耳学問」なんですね。一人の師について系統的に学問するというのではなく、いろんなところに出向いて偉い人の話を聞いて、その大意を知るというか・・・龍馬は理屈でというよりも、感覚で物を考えることに長けていたのではないか、と思われます。

 龍馬が二度目に来福した文久3年5月、龍馬、小楠、三岡の三人は互いに語らう時間を持ちました。この時、三岡は龍馬とは初対面でした。
 三岡の後年の回想によると、
「これより先は、勝海舟によって小楠を知り、熊本にも越前にも往来したので、私とも知り合いになった。
 小楠の邸宅は私の家と足羽川を隔てて向かい合って居た。ある日、親戚の招宴でおそく帰った処、夜半に大声で戸を叩く者がある。出てみると、小楠が坂本と一緒に小舟に棹さして来た。そこで三人が炉を抱えて飲み始めたが、坂本が愉快極まって――君がため捨つる命は惜しまねど 心にかかる国の行く末――という歌を謡ったが、その声調が頗る妙であった。翌朝、坂本は勝と大久保(一翁)に会いに行くという事で、江戸に向かった」
ということです。

 三岡八郎(由利公正)旧居跡の石碑 福井市毛矢1丁目
  DSCF4754.jpg

 龍馬が訪れたという三岡の家は、明治以降の河川工事により、足羽川の川底へ沈んでしまいました。
 現在は「幸橋」という橋がかかっていますが、当時は橋がなかったので、対岸に家があった小楠は龍馬を伴って深夜に小舟でこの川を渡ったのです。
  DSCF4758.jpg

 川の対岸にある横井小楠の居留宅跡 福井市中央3丁目
  DSCF4765.jpg

                       つづく



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坂本龍馬 人生最後の旅路(一) 龍馬と松平春嶽

 NHK大河ドラマ「龍馬伝」も残すところ、最終話のみになってしまいました。月日が経つのは本当に早いものですね。当ブログも最近遅々として更新が遅れていますが、急がないと…。(´・ω・`)

 坂本龍馬の短い人生の中で、福井藩との遭遇は重要なキーポイントでもありました。福井藩は「佐幕」でも「倒幕」でもない第三局の立場にいました。
 福井藩代16代藩主であり安政の大獄後隠居していた松平春嶽(慶永)(1828~1890年)との出会いから、龍馬の人生もまた新たな展開を見せていくようになります。むしろ、彼の出身地である土佐藩よりも、ある意味縁が深かったとも言えるかもしれません。「龍馬伝」を見ていた方は前半を思い出してください。

 文久2年(1862年)7月、前福井藩主・松平春嶽は、幕府大老の職にあたる「政事総裁職」に就任します。春嶽は、幕閣専制を「私政」として批判し、幕府と朝廷、幕府と大名といった「公論政治」の実現を目指していました。坂本龍馬が春嶽と出会ったのもちょうどこの時期だったといいます。
 春嶽が明治になってから著した手記「逸事史補」には、龍馬が江戸で春嶽と初めて面会したことが書かれています。

「其以前余が惣裁職たりし時、坂本龍馬・岡本健三郎二人謁見を乞ふ。余面会、天下の事情と形勢を陳述せり。勤皇の志感ずべき也」

 龍馬との初対面の模様を、春嶽はこのように書いています。
 郷士という低い身分であったのにもかかわらず、春嶽は龍馬との面会を許しました。千葉重太郎あたりの紹介があって実現したという説もあるようです。
 春嶽の述懐によれば、龍馬に勝海舟横井小楠を紹介したのも春嶽だということです。
 下の写真は福井市立郷土歴史博物館の脇にあった若き日の春嶽の銅像です。

     DSCF4500.jpg
     松平春嶽3

 龍馬は福井へ3度来訪したといいます。
    福井城

 第一回目は文久三年(1863年)4月 大久保一翁から前福井藩主・松平春嶽に宛てた手紙を届けるためにやってきました。この時の詳細は残念ながら福井藩の記録には残っていないようです。
 第二回目は同年の5月、勝海舟の命により神戸に海軍操練所を建設するための資金援助を依頼するためでした。この時、春嶽は5000両の大金を融通しています。
 第三回目は慶応3年(1867年)11月1日。久しぶりの来福でした。春嶽宛ての山内容堂の親書を届けるのが表向きの用件でした。

 福井神社境内にあった春嶽晩年の銅像。

   DSCF4480.jpg
    松平春嶽5

 松平春嶽は身分にかかわらず、藩の内外から人材を登用した人でした。この辺が旧来の殿様と異なるところです。だからこそ、龍馬との面会もOKしたのでしょう。彼の回顧録にも龍馬の名が出てくるように、春嶽の中で龍馬との出会いは強い印象を残したようです。
 それから、春嶽は土佐藩の山内容堂とは公私共に特に仲良しでした。手紙や贈り物を頻繁にやり取りしていたことが知られています。
 こうして、殿様から始まった福井藩との縁で、龍馬は福井藩士たちとも交流を深めました。これについては後述いたします。

  下の写真は松平春嶽がもっとも好んで使った号「春嶽」の由来となった福井市内から見た山並みの風景です。
     DSCF4714.jpg


                つづく


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薩長同盟の裏書

 「近江路・歴女ブロガー旅紀行」を読んでいただいた皆様、本当に有難うございました。手前味噌ですが、お楽しみいただけたでしょうか。
 実は応募要項で、掲載日時の期限が予め決められていたため、あのとおりせわしない更新になってしまいました。短時間で書いたので、かなり疲れました(汗)。
 本日からまた通常通り戻らせていただきます。

 さて、この3連休の中日、東京丸の内の皇居東御苑内にある「三の丸尚蔵館」へ行ってきました。
 現在、「皇室の文庫(ふみくら) 書陵部の名品」展を開催中です。

 皇居の大手門をくぐり、
 DSCF6305.jpg

 受付で入苑札をもらい、中へ進むとすぐ右手にある建物が会場です。
DSCF6314.jpg

 今回のお目当ては、あの坂本龍馬が書いた「薩長同盟の裏書」でした。先月から展示中なのは知ってたんですが、例の滋賀県の旅やその他の用事が多く、なかなか行けないでいたので、とりあえず行ってみました。
 「薩長同盟の裏書」が何たるかは、以前書いたのでそちらをご覧ください。
 
 三の丸尚蔵館の展示室は本当に狭いんですね。20畳あるかないかぐらい。入館した途端、狭い室内にたくさんの人々が観覧しているのに少々驚きました。
 そして、お目当ての龍馬の「裏書」の前には、とくに人だかりが出来ていました。
 やっぱり、「龍馬!」と聞くと、人が一杯来ちゃうんですね…。

 他の展示物も列をなしていたので、外へ出て、しばらく東御苑内をうろうろ。
 御苑内も普段よりは人が多かったです。外国人観光客たちもよく見かけました。
 20分くらいぷらぷらして、また尚蔵館へ戻る。
 まだ、「裏書」の前に多数の人だかりが出来てました…orz
 閉館まで40分くらいだったので、仕方ないので後ろの方で順番を待ち、ようやく見ることができました。
 
 この裏書、何年かにいっぺんくらいは公開されるとは聞いていましたが、さすがに皇室の持ち物なので、なかなか他所には貸し出されないですね(当然といえば当然ですが、春先に見た「龍馬伝」展にも出品されていませんでしたし)。木戸孝允の子孫から後に皇室に献上された「木戸家文書」の中に含まれています。

 そのほか41点の貴重な史料が展示されていましたが、やっぱり「裏書」目当ての方が多かったですね。それから、「竹取物語」などの古典も女性に人気がありました。
 やっぱり、この手の人気展は日曜、祭日などに行くものじゃないですね。
 同展示は今月17日(日)までとなっています。(休館日に注意のこと)
 今年は大河ドラマのおかげで、いろんな龍馬や幕末関係の展示会が催され、そのうち見に行けた物はどれも良かったです。

 大河ドラマの方も先日で収録が終了したそうです。主役の福山さんをはじめ、約1年という長丁場の撮影本当にお疲れ様でした。

 ただ、ちょっと気になったのは…(続きを読む、をクリックしてください)


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龍馬暗殺 (後)

 つづき

 慶応3年(1867年)11月15日、悲劇はおこりました。
 土佐藩出入りの醤油商・近江屋の二階にいた坂本龍馬と中岡慎太郎は、十津川郷士と名乗り、龍馬に面会を求めてきた謎の訪問者たちによって襲撃を受け、龍馬は三十箇所を超える深手を負いほぼ即死状態、中岡も瀕死の重傷を負い、二日後に息を引き取りました。
 龍馬を暗殺した者たちですが、現在では佐々木只三郎率いる「見廻組」の犯行としてほぼ確定されています。そして、その背後にはどうやら会津藩(佐々木の実兄である手代木直右衛門か)の影がちらついている、ということが判っています。
 死ぬ間際の中岡慎太郎などは、自分たちを殺ったのは新選組の仕業か、などと思っていたようですが、この頃の新選組の近藤勇はなぜか土佐藩の後藤象二郎に接近しているので、犯人としては考えにくいといいます。

 伏見の寺田屋で幕府の手の者に襲撃されて以来、龍馬はすっかりお尋ね者となってしまい、常に暗殺の影に脅かされていたにもかかわらず、彼は身の安全のために土佐藩邸にも入らず、あまりにも無防備すぎました。
 それはなぜだったのか。
 元陸援隊士だった田中光顕の言葉によれば、
「彼(龍馬)は、平生、王政維新の大業さえ成就したなら、この一身、もとよりおしむ所にあらず、もう無用の身だといっていた」
ということです。
 つまり、龍馬は維新に己の全エネルギーをかけており、自分の命などこれっぽっちも惜しくないという思いで一杯だったのです。
 そして、この気持ちは単に龍馬だけにとどまらず、同時代を生きた志士たちに共通した心理だったと言えます。

 私などは龍馬が死んだ年齢をとっくに超えてしまっているのですが、龍馬がその短い生涯の間に実に様々な所へ出かけ、多くの人たちに会い、エネルギッシュに活動していた姿には深く感動を覚えます。
 もし龍馬が暗殺されず、次の時代を生きていたらどうなっていたのかを考えるのは元より詮無いことではあるのですが、おそらく彼は政治の表舞台に立つというより、たとえば五代友厚のような政商にでもなったのかなあと思います。「縁の下の力持ち」といった立場ですね。
 下の写真は京都・円山公園にある龍馬と中岡の銅像です。二人の視線の先にあるものはいったい何だったのでしょうか。

                                    終わり

坂本龍馬・中岡慎太郎

 
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龍馬暗殺 (前)

 京都史跡巡りの続きです。テーマは「龍馬暗殺」ですが、大河ドラマの進行に合わせ、もっと後に書こうと思いましたが、またその頃になると年末でもあり、忙しくて書けなかったりするので、今のうちに記しておきます。

 京都市街の河原町通りはいろんな店が立ち並び、多くの人々が行き交う賑やかな通りです。その河原町通りに面して、坂本龍馬が盟友・中岡慎太郎と共に暗殺された現場である、醤油商「近江屋」跡を示す石碑があります。
 近江屋跡1

 現在、石碑のある場所はコンビニのサークルKになっています。大河ドラマ効果もあって、石碑の前で足をとめる人も多いようです。石碑の脇にある木製の説明板は以前はありませんでしたから、ここ数年の間に作られたものと思われます。
 (7,8年前ここを通った時は、旅行代理店だったと思ったのですが、いつの間にかコンビニになってました。(^^;) )

近江屋跡3

 店のほうも気を利かせて、入り口のど真ん中に龍馬関係のグッズを置いていました。

近江屋跡2

 私も長らく、この場所が近江屋の跡地だと思っていたのですが、実はこの石碑が建てられたのには裏話がありました。
 大正13年に河原町通りが道路拡張することになり、近江屋の建物も取り壊されることになって土地が削られることになりました。なお、道路拡張前は道幅5メートル程度だったということです。
 その当時、龍馬の付き人であった菊屋峰吉も存命であり、取り壊された後の近江屋の場所確定に一役買ったそうですが、近江屋の跡地を買った人がカフェを建設することになり、人が殺された場所を示す石碑を建てるのは縁起が悪いと難色を示したため、北隣の土地の所有者が自分の店先の一部を提供して、そこへ石碑が建てられたということです。(快く場所を提供した隣人は、土佐出身者だった)
 ですから、実際の近江屋があったのは、現在サークルKのある場所の南隣の土地だったということらしいのです。

 さて、この前の日記で龍馬は寺田屋での襲撃事件以降、幕府のお尋ね者となってしまい、身の危険を感じつつも何故か土佐藩邸に入らず、近所にあった「近江屋」に逗留していたことまで書きました。
 その前は、車道にある材木商「酢屋」に海援隊の事務所を置いていたので、そこへいました。

酢屋

 余談ですが、「酢屋」は今でも昔の場所にあります。ここの二階はギャラリーになっていて、見学するのに何故か一人500円も取られます。個人的には見るに値するものは何もなかったです。

 近江屋は土佐藩出入りの御用商人だったんですが、龍馬の滞在を快く受け入れ、奥にあった土蔵を改造してそこを龍馬の隠れ家とし、もし刺客が襲ってきた時は裏の称名寺へ逃げられるよう改造までしていたといいます。
 暗殺される直前、龍馬は土佐藩の使者という立場で越前福井藩へ岡本健三郎と共に出かけていて、帰京してから風邪を引いてしまっていました。
 事件がおきた前日より、風邪気味の龍馬は近江屋が隠れ家として用意していた土蔵では寒くて仕方がないため、母屋の二階の座敷に移っていた事が運命の別れ道となりました。

                                 つづく



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A☆六文銭

Author:A☆六文銭
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日本100名城完全制覇と有名人の墓めぐり(掃苔)
日本100名城スタンプラリー終了・・・2011年7月、根室半島チャシ跡群にて、無事100名城完全制覇しました。
2010年5月、47都道府県踏破済み。(離島を除く)
歴史の現場を、実際歩いて確かめることをモットーに、全国を行脚中。いつかあなたの住む町へ行くかもしれません。
東京生まれ東京育ち。
大卒後、音楽関係の仕事、専業主婦、現在は零細企業で総務関係の仕事をしています。

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