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【祝・世界遺産正式登録】富岡みやげ&富岡工女の墓

 本日、中東カタールの首都、ドーハで開催中のユネスコ・世界遺産委員会は、群馬県富岡市にある「富岡製糸場と絹産業遺産群」世界遺産として正式登録すると決定しました。日本を除く20か国のうち、実に18か国の委員国が世界遺産登録への賛意を表明したということです。おめでとうございます。

 富岡4

  つづき

 富岡製糸場を見学後、近所をぷらぷらしてみることにしました。
 製糸場の正面のメインストリート沿いに、「和風絹しゅうまい」の看板を掲げている店があったので、入ってみることに。
 信州屋(もともとは旅館を営んでいたとか)
 信州屋


 イートインでいただけるというので、2人前頼んでみました。
 信州屋・絹しゅうまい

 シルク入りだというしゅうまいは上品な味で美味しかったですが、一緒に出てきたお茶がほんの申し訳程度の量(数ml)だけで、あまりサービスが良くなかったのが残念。


      ***************************

 
 その後、近所の土産物屋でお土産などを買った後、近隣で車を走らせていたところ、とある寺の門前に下のような看板を見つけました。「旧官営 富岡製糸場工女 墓 (後略)」と書いてあります。これは立ち寄らないわけにいきません。
   龍光寺3

  龍光寺(富岡市富岡1093)
 龍光寺(富岡市)

  「絹ひとすじに生きた青春! 異郷に散った若い生命(いのち)を讃えましょう」
   龍光寺2


  明治7年から同34年までに亡くなられた工女さんたちの墓。
 富岡工女の墓1
 富岡工女の墓2
 富岡工女の墓3

 各地よりうら若き乙女たちが、それぞれ夢と希望を抱いて工女になるべく富岡へやってきたはずですが、志半ばにして病に倒れた女性たちも少なくなかったようです。
 世界遺産登録を目前に、墓前で名もなき工女たちの冥福を祈りました。
 どうか、お時間のある方はぜひ墓参していただき、若くしてこの世を去った女性たちに思いを馳せていただきたいものです。



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テーマ : 史跡
ジャンル : 学問・文化・芸術

松方正義・山本権兵衛の墓(八木沼純子さんの御先祖)

 ソチオリンピックも後半戦。今夜未明から、楽しみにしていたフィギュアスケート女子SPが始まります。

 日本からは浅田真央ちゃん、鈴木明子ちゃん、村上佳菜子ちゃんの3名が出場します。今からワクワク、ドキドキなのですが、残念ながら明日は仕事のため、リアルタイムで見れそうもありません。これから録画をセットしておこうと思います。

 ところで、フィギュアスケートの中継ですと、ここ数年「女子の部」は元フィギュア選手の八木沼純子さんが解説を担当されることが多いです。
 現役時代から美人スケーターとして有名でしたが、引退された後も多方面でご活躍されていらっしゃいます。
    八木沼純子


 その八木沼さんですが、以外にもそのご先祖様を辿ると、かなりの大物でした!


 松方正義(1835~1892年) 八木沼さんの高祖父
 
 明治時代の政治家。薩摩出身。首相を2回、その他蔵相などを務めました。(「松方デフレ」政策で有名)
 正妻とお妾さんに15男11女の26人ものお子さんをもうけ、ある時明治天皇から子供の数を聞かれ、とっさに返答することが出来なかったといいます。
 松方

 墓は東京の青山霊園にあります。
 松方正義の墓

 


 山本権兵衛(1852~1933年) 八木沼さんの高祖父

 薩摩出身。海軍大将。首相を2回、その他海軍大臣を務めました。

 山本

 やはり墓は青山霊園にあります。
 山本権兵衛の墓


 調べてみたところ、松方の8男、乙彦さんという方が、山本の娘さんと結婚されて、そのご子孫が八木沼さんだということです。やはり、「薩摩」つながりでの縁談だったのでしょうね。
 二人の高祖父様とも薩摩隼人でいかつい感じなのに、ご子孫の八木沼さんは美人なのにはびっくりです。(あまり似てないですね・・・)

 
 それはともかく、女子フィギュアスケートの試合が楽しみです♪目指せ、金メダル!

 
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テーマ : スポーツ
ジャンル : ニュース

武田信玄の弟、典厩信繁の墓(典厩寺)

 松代城から北へ約2.8KMの場所に、「八幡原史跡公園」があります。
 ここは、戦国時代、「川中島の戦い」の舞台となった古戦場です。

 八幡原史跡公園

 永禄4年(1561年)の第4次川中島合戦では、武田軍と上杉軍との間に激闘が繰り広げられ、かの有名な「信玄、謙信の一騎討ち」の話もこの時のものです。


 「八幡原史跡公園」より南へ10分弱歩いたところに、松操山典厩寺(曹洞宗 長野市篠ノ井杵淵1000)があります。
 同寺には、第4次川中島合戦で壮烈な討死を遂げた、武田信玄の弟、信繁の墓があります。
 (※この門は、松代の長国寺から移築したものだそうです)
 数年前に一度来ているので、今回は再訪になります。

 典厩寺1



 武田信繁(1525~1561年)の墓

 武田信繁は武田信虎の二男として生まれました。通称、左馬助を称したことから、左馬助の唐名である「典厩」の名で親しまれる。

 父、信虎は長男の晴信(後の信玄)を疎んじ、弟の信繁に家督を譲ろうと考えていたといいます。
 晴信が信虎を放逐後、信繁は武田家の“副将”として、兄を支え、また武田家家中をまとめました。信繁は己の分をわきまえ、兄より一歩引いた立場に身を置いていたのでしょう。
 信繁の事績として特記されるのは、永禄元年に嫡男、信豊に与えた99カ条からなる「家訓」でしょう。この中で、信繁は主家へ忠誠を尽くすよう述べています。この「家訓」は江戸時代、武士の心得を説いたものとして広く読み継がれたといいます。
 永禄4年の川中島の戦いで信繁は壮烈な討死を遂げました。兄、信玄の「楯」となり、命を落としたのです。享年37歳。
 亡骸は千曲川のほとりにあった鶴巣寺に葬られました。(後の元和8年に、松代藩主・真田信之により墓碑が建てられ、寺名は「典厩寺」と改められたという)
 法名「松操院殿鶴山巣月大居士」

 信繁の戦死は「惜しみても尚惜しむべし」と評され、兄、信玄は弟の死に深く慟哭し、また敵将である上杉謙信もその死を悼んだと伝えられています。
 武田信繁の墓1
 武田信繁の墓2

 武田家というのは、信虎―信玄、信玄―義信といった親子の間には相克があるのですが、兄弟の間柄はとても良好だったんですね。
 信玄、信繁、信廉(逍遙軒)は仲良し兄弟だったそうです。
 信繁がもう少し長生きしていたなら、武田家の滅亡は防げたかもしれません。 
 各地で武将の墓参をしてきましたが、とりわけ武田信繁の墓には「もののふの心」を感じます。

 なお、墓碑の左背後に小さな五輪塔がありますが、右側が典厩信繁のもので、左側が真田幸村(信繁)の供養塔だそうです。
 かの真田昌幸は、もともと武田家の家臣だったのですが、二男の源二郎には典厩にあやかって「信繁」という名をつけたと思われます。
 昌幸の長男、信之が元和8年に武田信繁の墓碑を家臣に命じて建てさせたのですが、その時おそらく典厩と同じ名を持ち、「大坂夏の陣」で壮烈な討死を遂げた弟、信繁(幸村)が偲ばれたことでしょう。

 
 おかげ様で、当ブログで武田信虎、信玄、信繁父子の墓をアップすることができました。
過去記事 武田信虎の墓
       武田信玄・信虎の墓(恵林寺)

 

 ところで、典厩寺にはもう一つ見どころがあります。

 閻魔堂

 万延元年(1860年)に松代藩主、真田幸貫(老中、松平定信の実子)の発願により、川中島合戦300年記念、戦没者の追善供養のために建てられたといいます。
 このでかい閻魔様も迫力ありますね!
 典厩寺2



 実は典厩寺は春に「しだれ桜」の名所なんですよね。数年前来たときも、ちょうど桜が見頃でした。
 今回は晩秋ということで、境内にあった真っ赤な紅葉が印象的だったので掲載しておきます。

  典厩寺3
  典厩寺4



 なお、典厩寺の墓は信繁の胴塚であり、彼の首塚は長野県小諸市にあるのですが、2008年に行ってきました。
 写真データが見つかったので、掲載しておきます。信繁の首は家臣が信繁の嫡男、信豊のもとへ運ぶ途中、現在の小諸市のこの付近に葬ったと伝えられています。

    【参考】武田信繁首塚 
   武田信繁首塚





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松代藩改革者、恩田民親の墓

 今年も、「もののふの足跡を追い求めて」(※もののふ以外も多いですが)をモットーに参りますので、よろしくお願いします。

 2014年の「墓初め」は・・・

 長国寺および真田信之の墓 のつづき

 松代藩主、真田家の菩提寺、長国寺には松代藩士の方々の墓も多くあります。

 
  恩田木工民親(1717~1762年)の墓 (※「木工」は通称)

  恩田民親の墓1

  恩田民親の墓2


恩田木工(もく)民親(たみちか)の墓は高さ 240 ㎝の宝篋印塔で、正面に「玄招院鉄翁道関居士」、左の側面に「宝暦十二壬午戴正月上六日」、右の側面には「俗名恩田氏民親墓」と刻まれている。
民親は享保3年(1718)、松代藩家老職の家に生まれた。当時、藩の財政は非常に苦しく、領民もまた困窮して百姓一揆が起こる状態だった。藩主の真田幸弘はこうした状況を打破するため、民親を勝手係に抜擢する。宝暦5年(1755)、民親 39 歳のときである。
民親の施政方針は、「うそを言わないこと」「倹約すること」「贈収賄をしないこと」「賭博行為も営利が目的でなく、娯楽とするならよい」などであった。
また、年に1度の納税法を改めて月割納方にすることにより、納税しやすくするとともに滞納を整理し、さらに領民の収入を増やすため山野荒地の開墾、養蚕の奨励にも力を入れた。このほか神仏崇敬思想をひろめ、精神を高める努力もしている。
このような民親の業績は『日暮硯(ひぐらしすずり)』に詳しく書かれているが、松代藩のほかにの方針を採用した藩も多かったという。
宝暦 12 年(1762)1月6日、病気のため46 歳で死去した。のち大正7年に正五位を贈られている。

                (現地案内板より)

  真田公園にある恩田木工民親の銅像
 恩田民親像



 初代藩主、真田信之の豊かだった時代は過ぎ、5代藩主・信安の時代の治世は混乱を極めました。領地は荒廃し、度重なる幕府からの普請の負担により藩財政は窮乏しました。藩士の俸禄は半減、年貢の増加、足軽の出勤拒否、百姓一揆が起こりました。
 やがて信安が死去し、16歳の若き藩主、幸弘が藩主となり、藩の末席家老であった恩田木工は「勝手方御用兼帯」に抜擢されます。
 こうして始まった木工の藩政改革はすぐには芽が出ませんでしたが、木工の改革の精神は木工の死後も受け継がれ、江戸末期になると松代藩の財政も改善していたといいます。
 上記にもある通り、宝暦12年(1762年)のお正月に木工は亡くなりました。享年46。


 
  作家、池波正太郎は小説『真田騒動~恩田木工~』で木工の活躍を描きました。
 
真田騒動―恩田木工―真田騒動―恩田木工―
(2012/10/05)
池波正太郎

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 木工の業績を記した『日暮硯』 現代でも経世の書として読まれています。
 
日暮硯 (岩波文庫)日暮硯 (岩波文庫)
(1988/04/18)
笠谷 和比古

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長国寺(曹洞宗)および真田信之の墓

 松代城の東方向、歩いて10分くらいの場所に、真田家の菩提寺「長国寺」(曹洞宗)があります。

 寺の由来としては、天文16年(1547年)真田幸隆(真田昌幸の父、信之・幸村の祖父)が開基となり、伝為晃運を開山として信濃国小県郡真田(現在の長野県上田市真田町)に建立した長谷寺に始まります。
 元和8年、真田信之が上田から松代へ転封となると、寺も移ってきて、寺号を「長国寺」と改めました。以後、真田家の菩提寺として現在に至っています。
長国寺1

 
 真田家菩提寺ですから、お寺の建物にも「六文銭」が。。。(当たり前か)
 長国寺2

 江戸時代は、境内に真田家の霊屋5棟が立ち並んでいましたが、明治維新後、移築されたり、火災に遭ったりで、現在は初代藩主・信之、第4代藩主、信弘の霊屋が残されています。


 真田信之霊屋(重要文化財)
 
 真田信之霊屋


 遠くから望遠で撮影しているのでわかりにくいですが、破風に彫刻された鶴はかの「左甚五郎」作によるものと伝わります。
 江戸時代初期に建てられた壮麗な造りとなっており、表門と共に重要文化財に指定されています。
 真田信之霊屋2



 4代信弘霊屋(県宝)
 やはり時代を反映して、信之のものと比べると質素な造りとなっています。
 真田信弘霊屋



 霊屋から少々離れた場所に、松代藩主・真田家墓所があり、歴代藩主の墓塔が並んでいます。(※2008年4月撮影 ちょうど松代は桜の時期でした)
 
 松代藩主真田家墓所


 真田信之(1566~1658)の墓(2008年4月撮影)

    真田信之

 
 真田昌幸の長男であり、幸村(信繁)の兄。
 信濃の小領主から戦国大名となった父、昌幸、大坂の陣で名を挙げ、壮烈な討死を遂げた弟、幸村の影にどうしても隠れがちですが、真田家を守り、近世大名の道を辿ったのはひとえにこの人の才覚によるものです。
 信之はその実直な人柄を徳川家康に見込まれ、本多忠勝の娘で家康の養女であった小松姫を妻としていたので、関ケ原目前にして、父・弟と決別し、徳川方に従います。
 関ケ原合戦後は、上州・沼田城主から昌幸の旧領も引き継ぎ信州・上田9万5千石を治めます。
 大坂夏の陣では、弟・幸村が戦死。信之は昌幸や幸村の家臣を引き取っていたといいます。
 その後、元和8年に上田から松代へ転封。晩年は「お家騒動」などもありましたがそれをも乗り越え、万治元年(1658年)その波乱の生涯を閉じました。享年93歳。当時としては非常に長寿だったと言えます。
  
  PICT0104_20131227221901048.jpg



 上の写真5枚は昨年の今頃撮影したものですが、この日は小雨が降っていて、あまり天気がよくなかったのですが、信之の霊屋に参った時だけ、なぜか雨が突然止んだのです。そして、寺を出たらまた降ってきました。少々不思議な体験をしました。

 なお、真田家墓所、霊屋に立ち入る際は寺の許可がいるので、受付で申し出てください。


  長国寺  長野市松代町松代1015-1



 作家・池波正太郎による真田昌幸、信之、幸村父子を描いた長編小説「真田太平記」
 池波はこの3人の中で、とりわけ信之を好み、小説の最初から最後まで彼を登場させています。
 
真田太平記(一)天魔の夏 (新潮文庫)真田太平記(一)天魔の夏 (新潮文庫)
(1987/09/30)
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 信之の晩年、真田家におきた「お家騒動」を描いた「獅子」
 
獅子 (中公文庫)獅子 (中公文庫)
(1995/04/18)
池波 正太郎

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大久保利通の墓

 先週、東京港区にある青山霊園へ行ってきました。
 親族の墓参のほか、調子に乗って周囲の墓めぐりをしていたら、翌日風邪をひいてしまい、この1週間ダウンしてしまいました。やはり、この時期は夏の疲れも出るせいか、無理はいけません。


 大久保利通(1830〜1878年)の墓
    大久保利通像


 木戸孝允、西郷隆盛と並び、【維新の三傑】のひとり。
 多くの場で取り上げられているため、あえて載せるまでもないとも思いましたが。
 近代国家の樹立のため多大な功績を残した人ですが、個人的にはなぜかあまり好きになれないというか・・・。
 明治になってから、権力闘争をやったのがちょっといただけないかなと。


 ここへは何度か来ていますが、大久保の墓は同霊園内でも、ひときわ広く、大きいです。
 「神式」のため鳥居があります。
大久保利通5


大久保利通1

 
  特徴ある「亀趺墓」 大名家の墓などによく見られます。
  大久保利通3



 墓の手前には、大久保の功績をたたえる碑が。
 大久保利通2


 「西南戦争」後の明治11年(1878年)5月、大久保は不平士族によって暗殺されます。(「紀尾井坂の変」)
 大久保の遺体の懐からは「敵」となってしまったかつての盟友、西郷の手紙が出てきたそうです。
 凶変時、彼は二頭立ての馬車に乗っていて悲劇に見舞われましたが、一緒に落命した馭者・中村太郎と馬の墓(後) 馬の墓には馬型のレリーフが見られます。
 大久保利通4


 傍らの灯篭の笠の部分が落下していました。2年前の震災によるものかと思われます。
 大久保利通6


 大久保が偉いな・・・と思うのは、「西南戦争」後に彼は暗殺の危機に瀕しており、警告もされていたにもかかわらず、あえて警護を厳重にしなかったんですよね。その結果、暗殺という悲劇の最期になりました。わが命を毛頭惜しんでいなかったのです。
 また大久保は私腹を肥やすということもなく、むしろ彼の死後大久保家には多額の借金が残ったとか。
 願わくばもう少し生きて、立憲国家の樹立まで見届けてほしかったものですね。



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テーマ : 大河ドラマ 八重の桜
ジャンル : テレビ・ラジオ

細川家墓所・・・殿中刃傷事件と名君の出現

 東京文化財ウィーク2012で見た「旧磯野家住宅」の続きです。

 京浜急行新馬場駅から歩いて5分くらいのところに、熊本藩細川家の墓所があります。
 この地はもともと旧東海寺の境内で、細川家が建立した妙解院という塔頭がありまして、江戸における細川家の菩提寺となっていました(現在は廃寺)。
 現在高層マンションに隣接するこの墓所には、下の写真ように大きな五輪塔が立ち並び、細川家4代以降の歴代藩主と明治以降の当主、およびその奥方が眠っています。
 通常墓所は非公開ですが、細川家のご好意により、毎年秋の文化財ウィークの時だけ一般公開されています。都内に残る大名家墓所としては、往時の姿を良好にとどめています。 
  細川家墓所

 ところで、殿中刃傷事件といえば「刃傷松の廊下」で有名な浅野内匠頭が吉良上野介を斬りつけた事件が有名ですが、江戸時代中を通して、江戸城内での刃傷事件は数件あったのです。
 延享4年(1747年)8月15日、江戸城大広間の厠付近で、細川家5代藩主・宗孝が6千石の旗本・板倉修理勝該(かつかぬ)にいきなり脇差で斬りつけられて重傷を負い、その傷がもとで死に至るという事件がおきました。
 宗孝享年31という若さでした。一方の板倉には当然のことながら切腹が命じられました。
  細川宗孝墓


 この事件ですが、もともと「狂癇の疾」(一種の精神病)があった板倉勝該が主家である遠州相良藩主・板倉勝清を一方的に逆恨みし、これを殺めようとして、誤って細川宗孝を斬りつけてしまった・・・というのですが、その人違いの理由が家紋の見間違えによるものだというのです。

  細川家の九曜紋
 細川家家紋

  板倉家の九曜巴紋
 板倉家家紋


 上の二つの家紋を見てもらうとわかる通り、たしかによく似ています。この刃傷事件が家紋の見間違えによるものだという説は当時からまことしやかに言われてきました。

 ところが、明治になって元旗本の大谷木(おおやぎ)醇堂という人物が書き残した書物には、この事件のまつわるある異説が記されていました。

 醇堂が聞いたという説は、白銀台町にある板倉勝該の屋敷は細川家下屋敷の崖下に位置し、大雨が降った後など細川家から汚水が流れてくるので、板倉家では細川家に何度も苦情を申し出たが細川家の家臣はたかが旗本の言うこととしてまったく取り合ってもらえなかったため、このことが勝該を激高させ、あげくの果て殿中での刃傷沙汰に及んだ・・・というものです。

  港区高輪にある細川家下屋敷跡のシイの木
  たしかに、この付近を歩くと高低差があるので、汚水が上から下に流れてきたというのは納得できます。
  細川家下屋敷跡

 つまり、板倉修理の刃傷事件は、今でいう「ご近所トラブル」の末におきた悲劇だったというわけです。
 この話については、歴史家の氏家幹人氏がその著書『旗本御家人』(洋泉社)の中で詳細を書いておられます。
 私はこの本が出る前、たまたま氏家氏の講演でこの話を聞き、なるほど・・・と思ったものです。

 それにしても、殺された細川宗孝にしてみれば、大藩の殿様ですし、下屋敷での出来事などなかなか知る由もなかったであろうに、本当にお気の毒です。

  
旗本御家人 (歴史新書y)旗本御家人 (歴史新書y)
(2011/10/06)
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 ところで、宗孝には跡継ぎの子供がなく、細川家では急遽宗孝の弟・主馬を末期養子として家督を継がせます。この人が6代藩主・細川重賢です。
 重賢は4代藩主宣紀の5男であり、何もなければ一生部屋住みのまま終わるところを、相次ぐ兄たちの死で殿様の座につくという幸運を得ました。

 当時、熊本藩の財政は悪化していましたが、重賢は積極的な人材登用やゆるんだ綱紀の締め直しを行い、藩政改革を進めていきました。重賢は質素倹約を奨励するだけでなく自ら実践し、殖産興業を実施するなどして藩政の再建に力を入れました。(宝暦の改革)

 後に重賢は「肥後の鳳凰」と讃えられ、名君として世に知られるようになりました。
  細川重賢墓



 同墓所にはこの他、近代の人としては細川護熙元首相のご両親や祖父母、曽祖父母、また奥の方には細川家の支藩である高瀬藩細川家の墓所などがありますが、掲載は割愛させていただきます。
 なお、近所の方の話だと、昨年の大震災の直後は灯篭などが多数倒れていて酷い状況だったそうですが、現在はほぼ元に戻されていましたが、一部香炉などが倒れたままになっていました。
 私は熊本でも細川家の墓所を巡っているので、こちらで細川家の墓参はほぼ終了です。



 
より大きな地図で 細川家墓所(旧妙解院) を表示



 今年も後一日になってしまいました。もう1記事くらい書けるか・・・!?
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吉良上野介の墓 附・栗崎道有の墓

 今年もとうとうこの日がやってきました。
 元禄15年(1702年)12月14日の晩、赤穂浪士47名が本所松坂町にある高家・吉良上野介義央邸に討ち入り、主君・浅野内匠頭長矩の仇を討ち、本懐を遂げました。いわゆる「元禄赤穂事件」です。

 東京・中野にある萬昌院功運寺(曹洞宗) 江戸時代は市ヶ谷にあったそうです。
 功運寺

 ここに、吉良上野介のお墓があります。
 吉良上野介墓1

 一番右端の墓が上野介の墓です。法名「霊性寺殿実山相公大居士」
 夏場にお参りしたのですが、赤穂浪士たちと違って香華もなく、少々さびしい印象。
 今日あたりご供養が行われたのでしょうか。
 吉良上野介墓2


 「忠臣蔵」をはじめとする芝居、小説、映画、ドラマなどで一方的に「悪役」のレッテルを貼られている上野介ですが、実際はどうだったのでしょうかねえ。
 殿中における刃傷事件についても理由がはっきりしないし、同時代の史料によれば、浅野長矩は暗愚な殿様だったという説もあり、いささか上野介が気の毒な感じもなきにしもあらず、です。


 上野介の主治医だった栗崎道有の墓も同寺にあります。
 道有は浅野に斬りつけられた上野介の傷の治療にあたり、また討ち入り後は上野介の首と胴体を縫いあわせました。
  栗崎道有の墓


 今年は年末の時代劇で忠臣蔵はやらないみたいですが、先週急逝された歌舞伎俳優、中村勘三郎さんが「大石内蔵助」を演じたNHK大河ドラマ「元禄繚乱」(1999年放映)の総集編の再放送が今月29日にBSプレミアムで放映予定だそうです。
 意外にも、「元禄繚乱」DVD化されてなかったんですね・・・。
 若年の折から歌舞伎界をリードされただけでなく、時代劇にも積極的に出演された勘三郎さん。個人的には、大河ドラマ「武田信玄」で「今川義元」役を好演されていたのが思い出されます。
 まだまだこれからという御年なのに、残念でなりません。遅くなりましたが、勘三郎さんのご冥福をお祈り申し上げます。

 
過去記事 元禄15年12月14日・・・忠臣蔵
      元禄赤穂事件・追悼上杉家家臣



「忠臣蔵」の話題が出ると、もう今年も残すところわずかです。色々用事がたまっていて、ああどうしましょう(汗)
最近、なかなかブログをアップできません。折角覗いて下さった方、申し訳ありません。
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A☆六文銭

Author:A☆六文銭
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日本100名城完全制覇と有名人の墓めぐり(掃苔)
日本100名城スタンプラリー終了・・・2011年7月、根室半島チャシ跡群にて、無事100名城完全制覇しました。
2010年5月、47都道府県踏破済み。(離島を除く)
歴史の現場を、実際歩いて確かめることをモットーに、全国を行脚中。いつかあなたの住む町へ行くかもしれません。
東京生まれ東京育ち。
大卒後、音楽関係の仕事、専業主婦、現在は零細企業で総務関係の仕事をしています。

★当ブログ内の文章、写真等はすべて無断転載禁止です。宜しくお願いします。
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