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高知城(再々訪)

 こうして、今月上旬土佐山内家墓所を訪問(過去記事⇒「土佐山内家墓所探訪」参照)したついでに武市半平太や土佐勤王党関連の史跡を中心に綴ってきましたが、一応キリのいいところで一旦おしまいにします。(あとストックは半月分くらいあるのですが、また後日まとめてからいうことで・・・)

 最後に高知城の写真を数枚のっけておきます。高知城へはかれこれ3度めなのですが、過去2度とも曇⇒雨になってしまったため、今回「三度目の正直」でやっと晴れてくれました。おかげさまで青空をバックに撮影することができました。
 なお、高知城については一昨年書いているので、詳細はそちらをご参照ください。

 過去記事  高知城(89/100)
         高知城〈二)
         高知城(三)
         高知城(四)


 追手門前から天守を望めるのは高知城だけ。
 高知城25



 天守をバックにした「板垣退助」像。この人や後藤象二郎はアンチ勤王党でした。
 高知城26(板垣退助)



 三の丸から見た天守 山内一豊が築いた初代天守は享保12年(1727年)に焼失。現在の天守は寛延2年(1749年)に再建されたもの。
 高知城21


 詰門付近
 高知城24



 天守と本丸御殿(懐徳館) 御殿が天守に接続しているのは珍しい。 
 高知城27



  ***************************

 以前紹介したときに、「三の丸」跡をアップし忘れたので、ついでに掲載しておきます。詰門を見ると、ついつい本丸方面へ急いでしまうのでこちらもお忘れなく。
 江戸時代、三の丸には「大書院」と呼ばれる広い建物があり、主に儀式などで藩士が集合する場所として使われていました。
 高知城23

 三の丸跡から発掘された長宗我部時代の石垣。長宗我部元親は天正16年(1588年)岡豊城よりここ大高坂山に移り築城しましたが、水害などで思うような城下町作りがかなわず、3年後に浦戸城へ本拠を移転しています。
 (過去記事⇒「浦戸城」参照)

 付近からは豊臣家との関係を示す「桐紋瓦」が出土しました。
 高知城28


 水路遺構  高知は多雨なため、石垣に泥水が入り目詰まりによるゆるみが生じないよう、排水しやすい工夫がなされています。この先は「石樋」に接続しています。
   高知城22


    
より大きな地図で 高知城 を表示


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テーマ : 城めぐり
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湯築城(二)

 つづき

 遮蔽土塁 内堀と外堀の間がもっとも狭い箇所にあり、その役割は大手からの視線を遮ることと、上級武士館の防備のため設けられたということです。遺構がよく残っています。
 湯築城19


 土塁模型  目立たない位置にありますが、考古学の好きな人が喜びそうな展示です。中世にあった土塁は現存する土塁よりもさらに規模が大きかったようです。
 湯築城18

 城の東側の方を見てみましょう。(「庭園区」)
 湯築城20


 庭園の池。池のすぐ側に建物の礎石が出てきたところから、この場所に庭園が築かれていたと思われます。
 湯築城17

 
 何やら大きな穴が。。。中世、ゴミ捨て場として使われていた穴の復元のようです。ただし、2007年に行った時は説明板があったのですが、今回は外されてなくなっていました。
 湯築城21


 外堀。現在でも幅が広い箇所で20mくらいはありますが、中世にあった堀はこれより更に大きな規模だった模様。しかし、現在に至るまでに埋め立てられてしまったようです。〈向こう側は子規記念博物館)
 湯築城22


 最後に道後公園の中央部にある見晴らし台へ行ってみましょう。左側に石垣が見えますが、当時のものなのでしょうか???
 湯築城16

 
 階段を上がってみると・・・。
 湯築城13


 お天気だったこともあり、良い眺めです。道後と松山市街を一望できます。そして、遠く右手に見える小高い山には!?
 湯築城15


 松山城の天守が見えました~(´∀`)♪ 望遠で撮影しましたが、私のコンデジではこれが限界です。
 湯築城14


 こうして、湯築城は二度目の訪問だったわけですが、「城」というより「館」といったほうが正しいかもしれません。
 また、城全体の3分の1しか発掘が行われていないので、まだまだ未解明の部分も多いようです。
 なお、この地を長く治めていた河野氏は、豊臣秀吉の四国平定の折に小早川隆景に降伏して、湯築城を開城しました。
 城を明け渡した最後の当主・河野通直という人は小早川隆景の領地である竹原で閑居させられ、従来病死したといわれてきましたが、最近の研究ですと、どうやら秀吉の意を受けた毛利輝元に殺害されてしまったようです。この辺にはキナ臭い謎がつきまといます。私も四国の歴史にはそれほど詳しくないので、もう少し勉強してみたいと思いました。

 松山城を見てしまうと、湯築城にはどうしても地味な印象を抱きがちですが、ぜひこちらのお城もじっくり見学していただきたいものです。1時間~1時間半もあれば回れます。

 まだまだ松山にはいろんな見所がありますが、少々長くなってしまったので、また別の機会にご紹介したいと思います。


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湯築城(一)

 子規記念博物館に隣接して、「道後公園」があります。
 一見普通の公園に見えますが、実はここに「湯築城」という中世の城がありました。国指定史跡であり、平成18年(2006年)には日本100名城に選定されております。
 私自身は2007年7月にスタンプをゲットし、昨年8月に再訪して写真を撮り直してきました。

 湯築城は南北朝時代(14世紀前半)、河野通盛によって築かれ、14世紀後半頃河野氏の居城となったと考えられています。
 天文4年(1535年)、当主・河野通直によって二重の堀と土塁をもつ平山城へと改修されました。
 しかし、その後の天正13年(1585年)、豊臣秀吉の四国平定に伴い、秀吉の命を受けた小早川隆景が伊予に侵攻し、河野通直は降伏し、湯築城を開城します。その2年後、福島正則が伊予に配されますが、その頃湯築城は廃城になったとみられます。
 河野氏は平安末期より続く豪族で、鎌倉時代は御家人、室町時代は守護として勢力を張っていましたが、かの秋山兄弟も、ご先祖は河野氏につながるといわれています。

 湯築城7

 
 公園の中に入って、まずは湯築城資料館へ行きましょう。こちらの受付で100名城のスタンプを押印してください。
 小さな資料館ですが、河野氏や湯築城の歴史を紹介したビデオを見ることもできます。
  湯築城5


 公園内の模型です。実はここにはかつて「道後動物園」がありました。その後、昭和63年に動物園が砥部町に移転したため、その跡地について発掘調査が行われました。
 すると、土の下に埋もれていた中世の城跡が400年ぶりにその姿を現しました。道後は温泉地でもあり、一時は観光関連の開発の話も出ていたそうですが、地元有志の熱心な保存運動が実り、史跡公園として整備されることになったそうです。
 こうした面が評価されて、「日本100名城」に選定されるに至ったと思われます。

 余談ですが、砥部へ移転した動物園は、その後人工哺育で育てられて話題となったホッキョクグマの赤ちゃん「白くまピース」で全国的に有名になりました。
 
  湯築城6


 発掘調査が行われ、復元整備されたゾーンを見てみることにしましょう。(下の写真は土塀)
  湯築城11


 土塀の先の小さな門をくぐると、武家屋敷が推定復元されていました。発掘調査した時、礎石が出てきたそうです。
 この辺には上級武士の館(あるいは当主の館の可能性も)があったとみられます。
  湯築城1


 戸が開いていたので、中を覗いてみますと。。。数体の人形がお出迎え。
 屋敷の主を中心に、「連歌」の会の模様を再現しています。
  湯築城12

 となりの台所では、もてなしの料理を作ってました。
  湯築城2


 少し離れた場所に、もう一軒屋敷が復元されていました。(手前)
  湯築城4


 こちらの屋敷の内部はミニ展示室となっており、発掘調査の際の出土品が多数展示されていました。
  湯築城8


 皿や壷といった陶磁器をはじめ、刀装具、硯等がいろいろ展示されていましたが、ちょっと面白かったのが、ネコの足跡がついていた皿。。。(=^・^=) うにゃ~
    湯築城9


 建物を出て、周囲を見てみます。
 発掘された道路と排水溝。
  湯築城3

 湯築城には二重に堀が巡らされていましたが、内側に設けられた堀(内堀)と土塁です。
  湯築城10

 
 写真の枚数が多いので、つづきます。

 (所用により、2~3日お休みさせていただきます)


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伊予松山城

 年頭に写真を掲げた伊予松山城の紹介です。2007年6月より100名城スタンプラリーを開始し、6番目に登城したお城でした。
 松山城は関ヶ原合戦の功績で20万石の大名となった加藤嘉明(1563~1631年)が道後平野の中心に位置する勝山に築城したのが始まりです。
  松山城9

 慶長7年(1602年)より25年の歳月をかけて築城されましたが、完成目前に嘉明は幕命により会津へ転封させられ、後に入った蒲生忠知が完成させました。
 加藤嘉明が建てた天守は五層のものだったそうですが、寛永12年(1635年)に松平定行が三層三重に改築。しかし、その後落雷にあって焼失し、現在のものは嘉永5年(1852年)に再建竣工されたものです。いわゆる「現存12天守」の内の一つです。
 大天守は三層三重地下一階の「層塔型」、これに小天守、南隅櫓、北隅櫓が多門櫓・廊下と結ばれている「連立式」の構成で、天守の構えとしてはもっとも堅固な造りとなっています。
 
   「松山や 秋より高き 天守閣」 子規
 
   松山城1

 一見、太鼓櫓の向こうに天守が見え直進できるように見えますが、実は櫓の手前を右へ進むのが正しいルートです。
 松山城5

 「戸無門」 早朝撮影したので逆光気味です(汗)。その昔、門限に遅れ、開門を拒まれて自殺した腰元の幽霊が夜な夜な「門を開けて」と叫ぶので、戸を無くしたという伝説が伝わっています。
 このほか、門が多く設けられているので、天守まで辿りつくのが大変です。
 松山城4


 せっかくですので、大天守に上ってみましょう。晴れた日はとても眺めが良いです・・・ということは、敵の動きもまた一目瞭然だったというわけですね。
 この城を築いた加藤嘉明といえば、「賎ヶ岳の七本槍」の一人で、豊臣秀吉の子飼いの武将でした。嘉明もまた、加藤清正と並んで築城の名手であったことがわかりますが、彼は家臣に有能な職能者をそろえており、そのうちの一人が普請奉行であった足立重信という人でした。
 重信は大量の瓦を麓から山頂へ運ぶ際、近隣の農民を多数動員して、麓から山頂まで一列に並ばせ、リレー方式で瓦を運び上げたといいます。しかも、それを三方向から行ったため、たった一日で使用する瓦をすべて運びあげたといいます。こうした巧みな人海戦術が功を奏し、このような立派な城が出来上がったのです。
 松山城3


 大天守から見た「小天守」。瓦には松平家が入封した後、「葵紋」が入れられています。
 松山城2

 
 「野原櫓」 日本で現存する唯一の「望楼型」の櫓です。天守の原型になったともいわれています。
   松山城13


 「乾門」 松山城は、廃城となった近隣の城で使われていた資材をリサイクルして使用しました。この乾門は伊予松前城から転用されたもの。
 松山城10


 本丸の売店では「いよかんソフト」を売っていますのでちょっと一休み。冬季は躊躇してしまいますが、いよかんの甘酸っぱい風味が絶妙ですから、ぜひ味わってみてください。
  松山城8

 なお、100名城のスタンプですが、本丸の料金所の人に頼んで、シャチハタ式のスタンプを出してもらってください。(実はもう一箇所外に出してあるゴム印式のスタンプもありますが、そちらは状態が良くないので)


 ****************************

 この日、往路はロープウェイで昇ったのですが、復路は黒門口登城道を徒歩で下りました。
 城山は今でこそ木々が茂り、うっそうとした森になっていますが、加藤嘉明が築城する前は禿山だったということです。
 松山城7


 登城口を降りていくと、やがて二の丸跡に出ます。二の丸にはかつて御殿がありましたが、現在は史跡庭園として整備されています。
 松山城11



 二の丸跡で忘れずに見ていただきたいのは、この大井戸です。東西18m、南北13m、深さ9mという石組みの大井戸で、発掘調査の末、復元されました。籠城戦に備えての貯水庫として設けられたのでしょう。
 松山城12

 

 これらの写真を撮影した時はまだ100名城巡りをはじめて間もない頃でしたので、、今振り返ると撮影し忘れた箇所などもあり、少々後悔しています。
 加藤嘉明が渾身で築いた攻守に優れた立派な城で、天守、櫓等21もの重要文化財を擁していますので、できれば時間に余裕をもって城内を歩いてみていただきたいものです。
 これだけの堅固な城を築いて、嘉明は会津へ転封させられてしまうのですが、おそらく松山城に後ろ髪引かれる思いで去っていったに違いありません。
 なお、蛇足ですが加藤家は嘉明の息子・明成の代にとある事件があり、改易させられています。


   
より大きな地図で 松山城 を表示

 
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謹賀新年 2012

  伊予松山城


 まことに小さな国が、開化期をむかえようとしている。
 その列島のなかの一つの島が四国であり、四国は讃岐、阿波、土佐、伊予にわかれている。伊予の首邑は松山。
 城は、松山城という。城下の人口は士族をふくめて三万。その市街の中央に釜を伏せたような丘があり、赤松でおおわれ、その赤松の樹間がくれに高さ十丈の石垣が天にのび、さらに瀬戸内の天を背景に三層の天守閣がすわっている。 古来、この城は四国最大の城とされたが、あたりの風景が優美なために、石垣も槍も、そのように厳くはみえない。
       司馬遼太郎 『坂の上の雲』(春や昔)より



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ぐるっと松江「堀川めぐり」

 400年の歴史を刻む松江の町はとても風情があります。松江市や地元の方々の努力で、街中が整然としていて塵ひとつ落ちていないので感心させられます。

 それと、松江を語る上で欠かせない事の一つに、松江城を囲むように宍道湖から水をひいた「お堀」があります。松江の町が「水の都」とも呼ばれる由縁です。
 前回、松江に来た時、乗客を乗せた小舟が幾艘もお堀を行き来しているのを見て、ちょっと乗ってみたいなあ、と思っていたのですが、その時はお城探索等で時間がとられ、乗ることが出来ませんでしたので、今回はリベンジということで早速お堀巡りをしてみることにしました。(写真はすべてクリックで拡大します)
 松江お堀遊覧1

 
 参考サイト(こちらのサイトをご参照の上、お読みください⇒) ぐるっと松江 堀川めぐり 


 遊覧船乗り場は3箇所にあります。私たちは殿町の「大手前広場」乗り場からスタートしました。乗客は14人くらいまでしか乗れません。
 松江お堀遊覧3

 この小型遊覧船は手漕ぎではなく、モーター付きの小舟です。ですから、思った以上に早いスピードで進んでいく感じです。
 うっかり景色に見とれていると、写真を撮り逃してしまいます。

 お堀遊覧ですから、あまり難しいことは考えずに風景を楽しんでいればいいのですが、どうしてもこういうモノに目がいってしまいます(笑)
 松江お堀遊覧5

 西側にはこのように石垣が築かれているのですが、北側のほうへ行くと石垣は作られていません。現在では草木が生い茂っています。
 松江お堀遊覧7

 これは松江城建設時、予算的に厳しかったことや、領主の堀尾吉晴がお城の完成を目前にして亡くなってしまったため、やむをえず「未完」のまま築城を終了しなければならなかったからなんですね。


 ところで、お堀巡りの一つの目玉として、大小16箇所の橋めぐりがあります。これが最初に通る橋です。
 松江お堀遊覧4

 

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松江城(三)

 松江城(二)よりつづき

 天守を見終わって出てきますと、どこかの幼稚園児たちが芝生でお弁当を広げていました。お城を見ながらのランチですか。微笑ましい風景ですね。
   松江城と園児

 
 その後、本丸の御茶屋さんで抹茶とお菓子セットを頼み、しばし休憩しました。
 松江は「お茶の文化」が根付いているため、街のあちこちでこうした茶菓子を頂くことがあります。
 前回来たとき、一日四箇所でこのような茶菓子セットをいただいていたら、おなか一杯になりすぎて夕食食べるのが辛くなったことがありましたのでご注意ください。(以下、写真はクリックで拡大します)
   松江城 抹茶セット

  
 ほとんどの観光客は天守だけ見ると帰ってしまいますが、時間のある方は城内を散策してみましょう。
 天守の北側の石垣。この辺も当時の面影が感じられます。
  松江城石垣

 ぐるりと廻って、二の丸の方へ戻ってみます。

 「追記の開閉」をクリックしてください↓(トップページが重いというご指摘があり、このようにしております)

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松江城(二)

 松江城〈一)のつづき

 天守の内部に入ります。薄暗い中で目につくのは地階にある井戸。深さが24mもあるそうです。これは籠城戦を想定して、飲料水確保のために掘られたものです。(写真はすべてクリックで拡大します)
  松江城天守井戸

  その他、戦後の解体修理の際に使えなくなった元材?だか廃材みたいのが色々置いてありましたが暗すぎてよく見えず。最近判明したそうですが、松江城に使われた材木は月山富田城の建物を転用していたらしいです。「富」の字の刻印が材木に打たれているのが発見されたそうなんですね。城を築くとき、使われなくなった近隣の城から材木を調達することはよくあることです。

 階段を上がって上の階へ。このフロアには甲冑や武具など展示品が並んでいます。
  松江城天守内部展示


 以前来た時に目に留まったのですが、真田幸村所用と伝わる軍扇。これは、大坂冬の陣の折、徳川家康の孫である松平直政(後の松江藩主)が14歳で初陣に臨んだとき、敵ながら天晴れとその若武者ぶりに感じ入った大坂方の真田幸村が投げてよこしたものといわれています。しかし、よく400年もの歳月失われずに保管されていたものです。
  真田幸村軍扇


 天守の雛形。堀尾氏→京極氏に継いで松江城主となった松平直政に仕えた大工頭・竹内右兵衛が制作したもの。右兵衛は松江城の修復も担当していたそうです。(松江市有形文化財)
  松江城天守雛形


 
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A☆六文銭

Author:A☆六文銭
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日本100名城完全制覇と有名人の墓めぐり(掃苔)
日本100名城スタンプラリー終了・・・2011年7月、根室半島チャシ跡群にて、無事100名城完全制覇しました。
2010年5月、47都道府県踏破済み。(離島を除く)
歴史の現場を、実際歩いて確かめることをモットーに、全国を行脚中。いつかあなたの住む町へ行くかもしれません。
東京生まれ東京育ち。
大卒後、音楽関係の仕事、専業主婦、現在は零細企業で総務関係の仕事をしています。

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